耕作放棄地は「想い」だけでは動かない【3】──それでも土地は眠らせない、三豊で見えてきた現実的な活用の芽

🧠 リサーチと気づき

前回までの記事で制度の構造を整理し、農地転用を取り巻く時代の変化を振り返ってきた。

耕作放棄地は、想いだけでは動かない。それは、ここまでで見えてきた現実。

では、その前提を踏まえた上で、実際に土地を動かすには何が必要なのか?

制度は厳しい。空気感も変わってきた。

それでも、現場を歩いていると、すべての土地が閉ざされているわけではないことにも気づいた。

ネットの地図では分からないこと。
数字だけでは判断できないこと。
不動産情報には載らない事情。

一見難しく見える土地でも、条件がそろえば動き得る余地はある。

本記事では、三豊という地域で実際に土地を見て回る中で感じたこと、そして「現実的に動かせそうな土地」の共通点を、現場の視点から整理していく。

想いは無力ではない。ただし、順番がある。

その順番を踏まえた先に、耕作放棄地を“資源”として捉え直す小さな芽が見え始めている。

この記事は「耕作放棄地の現実を見つめる」全3回連載の最終回。

現場を歩かないと見えないもの

土地は、地図の上では平等に見える。

面積や地目、用途区分、ハザードマップ、航空写真。今は多くの情報を、画面上で簡単に確認できる。

しかし、現地に立つと、その印象は驚くほど変わる。

わずかな高低差。
道路との関係。
周囲の建物の使われ方。
人の気配。

これらは、画面を見ているだけでは掴めない。

さらに大きいのは、情報の質の違い。

不動産ポータルに掲載される土地は、市場に出た“整理済み”の情報に限られる。

だが実際には、

  • 処分方法を相談されている土地
  • 造成や採取が進行中の土地
  • まだ売却を決めていない土地

といった、表に出ていない候補地が存在している。

それらは検索しても出てこない。地域の会話や、不動産会社の担当者の頭の中にある。

ある不動産会社の担当者は、こう話していた。

不動産のプロ
不動産のプロ

「大きな土地や、特殊な条件がある土地は、ネットに出す前に相手を探すことも多い。地域の事情を知っている人なら、どこに声をかければいいか、だいたい分かりますから。」

つまり、情報は”流通”する前に動くことも少なくない

制度を理解することは重要だが、土地は最終的に、現場の空気と人の関係性の中で動く。

三豊市内で土地を探していると、その実感は強くなる。地域の不動産会社、農業委員会、近隣の地権者──。こうした人々とのやり取りの中で、初めて見えてくる情報がある。

現場に立つこと。それが、土地を探す第一歩になる。

土地は「点」ではなく、ネットワークの中で見る

現場に立つことで見えてくるのは、単なる広さや形だけではない。

土地は、それ単体で完結している存在ではなく、周囲の環境との関係の中で意味を持っている。

道路はどこへつながっているのか。
どの方向から車両が入るのか。
近隣は住宅地なのか、事業用地なのか。
周辺にどんな施設があるのか。

そして、その土地が地域の中でどう位置づけられているか──。

例えば、同じ「白地の農地」でも、工業団地に隣接している土地と、住宅地に囲まれている土地では、転用に対する地域の受け止め方はまったく違う。

あるいは、幹線道路沿いの土地と、集落の奥にある土地では、将来的な利用の可能性も変わってくる。

これらは、単なる”条件の有無”ではない。その地域がどのような機能を担ってきたのか、周辺との関係性がどう築かれているのかを示す手がかりでもある。

机上で距離や面積だけを測れば、候補から外れる土地は多い。しかし、周辺との関係性まで含めて見ると、印象が変わることがある。

逆に、条件が整っているように見える土地でも、周囲との調和や将来的な影響を考えれば、慎重になるべき場合もある。

重要なのは、単一の条件で判断しないことだ。

土地は「点」ではなく、地域というネットワークの中の一部として存在している。

その前提で見直したとき、理論上は難しく見えた場所にも、別の角度からの可能性が浮かび上がることがある。

すべてが動くわけではない。しかし、すべてが閉ざされているわけでもない。

その違いを分けるのは、制度だけでも、数字だけでもなく、土地が地域の中でどんな文脈に置かれているかを読み取る視点なのかもしれない。

耕作放棄地は「余白」として考えられるか

耕作放棄地をめぐる議論は、時に二択になりがち。

農業に戻すのか、それとも非農業に転用するのか。

しかし、現場を歩きながら感じるのは、その二択だけでは捉えきれない土地が、確かに存在しているということ。

使われなくなった土地は、単なる”放置された場所”ではない。見方を変えれば、まだ役割が決まっていない「余白」とも言えるのではないか。

余白というのは、何もない空間ではなく、すでにそこにある環境、地域との関係性を含んだ上で、次の使い方を模索できる余地のことだ。

例えば、エネルギー調整拠点としての可能性。地域インフラの一部としての活用。災害時のバックアップ機能。

農業か非農業か、という単純な区分を超えて、地域全体の機能の中で再配置する視点が必要になると思う。

こうした発想は、DAOのような分散型の仕組みとも親和性がある。中央集権的に「農地はこう使うべき」と決めるのではなく、地域の文脈の中で柔軟に役割を見出していく──。

三豊で土地を見ていると、こうした「余白」としての可能性を感じる場面がある。

かつては田んぼだった場所が、今は草に覆われている。しかし、その周辺には道路があり、集落があり、何らかのインフラが残っている。完全に孤立しているわけではない。

「負債」として放置するでも、「過去の姿」に無理に戻すでもなく、地域の中での新しい役割を考える余地がある。

もちろん、すべての耕作放棄地が活用に向くわけではない。

制度の制約もある。地域の理解も欠かせない。そして何より、「なぜその土地で、その用途なのか」という説明も求められる。

だが、土地を「余っているもの」としてではなく、まだ役割が決まっていない資源として捉え直すことで、見えてくる選択肢は変わってくる。

それは、大きな理想の話ではなく、現場で一つひとつ条件を確認し、制度を踏まえ、地域との関係を考えた先に、ようやく見えてくる小さな可能性だから。

耕作放棄地は、白か黒かで切り分けられる存在ではない。

農業でも非農業でもない、その中間に。
過去でも未来でもない、その移行期に。
地域の未来を考える上での、静かな余白がある。

想いは無力じゃない。ただし順番がある

ここまで、制度の構造を整理し、時代の変化を振り返り、現場で見えてきた視点を共有してきた。

耕作放棄地は、想いだけでは動かない。

それは事実。

制度を無視することはできない。地域の空気を無視することもできない。過去の経験が積み重なった現在地を、飛び越えることもできない。

しかし同時に、想いが無力かといえば、そうではない。

想いは出発点。ただし、順番がある。

まず、土地を縛る制度を理解すること。
白地か青地か。地域計画に含まれているか。都市計画法のどの区分に該当するか。

次に、時代が何を学び、何を警戒しているのかを知ること。
ソーラーの経験を通じて、地域と行政は何を学んだのか。今、何が求められているのか。

そして最後に、現場を歩き、その土地が置かれている関係性を読み取ること。
地図に載らない情報。周辺との文脈。地域の中でのネットワーク。

その順番を踏んだとき、はじめて「動く土地」と「動かない土地」の違いが見えてくる。

すべてを救えるわけではない。すべてを資源に変えられるわけでもない。

それでも、閉ざされているように見えた土地の中に、確かに小さな芽はある。

アグリサークルは、耕作放棄地を理想論で語るのではなく、制度と現実の上に立ちながら、地域の中で機能し得る形を探り続けたい。

三豊という地域で、一つひとつの土地と向き合いながら、想いと現実のバランスを取り続けていく。

土地は、眠らせるためにあるのではない。

順番を守り、関係を読み解き、一つずつ確かめながら、未来の資源へと戻していく。

それが、この三回を通してたどり着いた、ひとつの答えだ。


【シリーズ完結】

この3回の連載を通じて、耕作放棄地をめぐる現実を整理してきた。

第1回では、制度の重層構造を見た。
第2回では、ソーラーを通じた学習のプロセスをたどった。
第3回では、現場で見えてきた可能性を探った。

想いだけでは動かない。でも、想いと順番があれば、小さな一歩は踏み出せる。

アグリサークルの挑戦は、ここから始まる。

参考

この三回の連載記事のきっかけとなった記事はこちら
👉 耕作放棄地は”未来の資源”になれるのか?──三豊から考える、新しい土地の使い方

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